世界遺産 熊野古道 花の窟神社  古代香稲米《ふさなり》

《ふさなり》とは? 
  ⇒ 一言で言えば・・・・『神様のお米』です。

  • 花の窟神社と産田神社の神饌米(=お供え物)。≪ふさなり≫は、1700年代

    に熊野詣をした土佐の人が、四万十川上流にある地元熊野神社※1への神饌米として使うため花の窟神社からふさなりの種籾と熊野高菜の種持ち帰り地元で守られてきました。※2

  • 神社に奉納する「ふさなり」の栽培と大道高菜の栽培、そのお祭りで奉納される、《伊勢踊り》などは、高知県幡多郡黒潮町大道地区に残っていたとされています。
  • 高知では1970年代に≪ふさなり≫の耕作が激減しました。
  • ≪ふさなり≫は、農学者竹田功氏らの学術研究用に種籾が保存されていましたが、近年高知県香美市谷相の農家によって栽培が再開されました。年間収量 3000kg(50 俵)※3
  • 香稲は中国雲南省が原産地とされ、日本には稲作文化として伝来し、神饌用、祭事用、ハレの日のもてなし用などに使われる白米です。 (赤米、黒米は収量が少ないので色付け米として使用される米。)

  • 古代香稲は、蒸して香りをお供えするために使われていました。

  • 香稲米の例 (出典:近藤日出男著「たべもの民族史」)

    薩摩霧島地方⇒「白玉」松山藩の記録にある香稲米です。(九州最古) 宮崎高千穂神社⇒「どくずみ」は1980 年代に絶滅しました。

    ※1 熊野神社信仰は分社という形で全国に広まりました。神社を分社する際には「梛」を本社より移植する のが一般的てしたが、高知四万十川にある熊野神社は「梛」に代えて香稲米≪ふさなり≫を持ち帰ったとされています。お供え用の神饌米は通常一般米穀市場に流通することはありません。その為、各地で文献に残る香稲米は近年栽培が途絶えています。 熊野神社及び熊野三山系の神社では神木とされ、一般的には雄雌一対が参道に植えられています。また、その名がに通じるとして特に船乗りに信仰されて葉を災難よけにお守り袋や鏡の裏などに入れる俗習があります。葉脈が縦方向のみにあるため、縦方向に引っ張っても容易に切れないことから、葉や実が夫婦円 満や縁結びのお守りとしても使われています。神社の中には代用木としてモチノキが植えている場合もあります。

  • ※2 熊野神社の田で神社の氏子が育て奉納します。昭和三年神社庁の通達前までは、稲は神社氏子の育成 したものを奉納していました。この奉納に関する記録は、九州大学、竹田功氏、近藤日出男氏らの調査資料としてまとまられています。

    ※3 農学者である竹田功氏の長男、竹田順一氏、高知工科大学により教え子に栽培が伝承されました。

    食味「ふさなり」は、炊き上がるときの香り・食味・冷えた時の食味が通常の米と違います。

 

【米を取り巻く時代背景】 戦中・戦後の食糧難の時代、米作は味や品質でなく収穫量が優先されました。 また米価も同様に目方で決められていました。当時日本の米作りは収量が優先されたため、農林水産省が推奨した水稲農林一号(すいとうのうりんいちごう)に代表される収量の多い稲が全国各地で作られるようになりました。稲の品種としては、現在も「水稲農林一号」を親とするコシヒカリの系統が主だった品種です。 そのため、日本で育てられている米は、名前は異なっていても食味の差異はあまりありません。出典://ja.wikipedia.org/wiki/水稲農林 1 号

 

【日本書紀からみる花の窟の由緒】※花の窟神社HPから転記

日本書記に「 一書曰伊弉冉尊火神(いざなみのみこと)を生み給う時に灼(や) かれて神退去(さり) ましぬ 故(か)れ紀伊国 熊野の有馬村に葬(かく)しま つる 土俗(くにびと)此神の魂(みたま)を祭るには 花の時に花を以って祭る 又鼓 吹幡旗(つづみふえはた)を用て歌い舞いて祭る」とあり、即ち当神社にし て、其の由来するところ最も古く、花窟の名は増基法師が花を以て祭るより起 これる名なり。
花窟神社は古来社殿なく、石巌壁立高さ45米。
南に面し其の正面に壇を作り、玉垣で周う拝所を設く。此の窟の南に岩あり、軻遇突智神の 神霊を祀る。
此の神、伊弉冉尊の御子なれば王子の窟という旧藩主に於いて、 此の霊地保護のため寛文 9 年 9 月、及び元禄 8 年 11 月四至限界御定書を下付し、 且つ高札を建て殺生禁断を布令せられた。

又、昭和 23 年 4 月 10 日天皇陛下 が皇太子殿下の当時、熊野地方御見学の途次御立寄りあらせられる。

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花の窟神社のお網掛け神事は、毎年 2 月と 10 月に催行されます。春(2 月)のお綱掛け神事は、その年の稲の豊作を祈る予祝神事(よしゅくしんじ)となっています。また、秋10 月のそれは、豊作に感謝する収穫祭となっています。 有馬の氏子が中心となり、およそ10メートルの三旒(みながれ)の幡形、下部に種々の季節の花々や扇子等を結びつけたものを、日本一長いともいわれる約170メートルの大綱に吊し、大綱の一端を岩窟上45メートル程の高さの御神体に、もう一端を境内南隅の松の御神木にわたす神事です。

古代にあって、「花」といえば『稲の花』を意味していました。 お綱掛け神事で大網に吊される花とは、単なる季節の花ではなく 本来は『稲の花』なのです。